京都の治安を守る新選組としては、なんとしても阻止しなければならなかった。ところが、攘夷派が圧倒的な人数なのに対して、近藤勇チームと土方歳三チームの二手に分かれて捜索していた新選組側は少人数。突入した近藤勇チームは、わずか4人(せがれ周平を加えて5人という説もある)だった。しかも、激戦の途中で沖田総司が結核で倒れ、実質3人で戦うハメになったのだ。6月5日当時は、京の三大祭・祇園祭の宵々山の日。周辺は人出も多く、提灯の火があちらこちらで灯されたにぎやかな夜たった。そんななか、シラミつぶしに宿という宿を捜索。近藤チームはとうとう、池田屋の2階に長州藩を中心とする尊皇攘夷派が密会しているところを突き止めた。ちなみに、池田屋は長州の定宿だったのだ。池田屋に到着した近藤勇チームは、6人に表口と裏口を固めさせ、残りのわずか4人で突入することに決めた。そして、午後10時ごろに入り口から入り、そこにあった鉄砲などの武器を縄でしばって押収。準備が整ったところで、宿の主人に「今宵旅宿改めであるぞ」と告げてなかへ踏み込んだ。2階には20人ほどの志士がいて、刀を抜いて待ち構えていたが、近藤の迫力に恐れおののいた様子だった。実は、近藤は作戦を立てる名将だった。実質3人で戦っていたにもかかわらず、相手側には大勢いるように錯覚させていたのだ。池田屋の周りには数百にも及ぶ援軍が構えていたに違いないとの錯覚が、尊皇攘夷派の混乱と動揺を招く結果となった。あわてふためき、裏窓の庇から裏庭に飛び降りる者や、反対側から中庭に飛び降りるなどして脱出を試みる者も大勢いた。人間の恐怖心は伝染するものだ。どの文献を見ても戦いの様子は、攘夷派の長州の志士が本来の力を出して戦っていたとはとても思えないほど、理性を失った混乱ぶりだった。この戦いで近藤勇が味方につけたのは、照明だった。池田屋に着いた当初、近藤は池田屋を外から入念に探り、間取りやなかの様子をチェックしている。そのさい、1階の土間に八間行灯があるのを確認したうえで、主戦場を1階にしているのだ。江戸時代、室内で主に活躍していたのは、行灯だった。移動用の行灯や部屋の隅に置いて部屋の一角を照らす置行灯まで種類は多かったが、主には、ごく限られた場所を照らすポイント照明として使われていた。